ペット徒然

ペットについてのあれこれを、気の赴くままに綴ってみようと思います。

我が家に犬がやってきた!

 遂に、我が家に犬がやって来た!
 まあ、何と小さいことだろう! 娘に抱っこされて、車から降りてくる。小学校中学年の娘もまだまだ小さいが、その娘の手にさえ不釣り合いに見えるほど、その犬は小さい。真っ白で、垂れた耳だけちょっと茶色で、目と鼻は真っ黒! ふにゃふにゃと柔らかそうで、オーブントースターでちょっとだけ炙った豆大福のようだ。
 四月一日生まれだというその白い子犬、つまり、生まれて二か月ちょっとで我が家へ貰われてきたのだ。
 可愛い子犬が入ったとペットショップから連絡が来て、本日、夫と娘は喜び勇んで出かけていった。特に小学生の娘は目をきらきらと輝かせていた。
 動物好きの娘は、もうずっと犬を飼いたくて飼いたくて仕方が無かったのだ。借家住まいをしていた時も、
『ねえ、飼っていいでしょ』
近所で生まれた子犬を抱えてきて、
『返して来なさい!』
 叱りつけたこともあったぐらいだ。
 特に家を新築し、
『犬、飼っていいよ』
 と言われてからは、犬の飼える日が来るのをじりじりしながら待ち続けていた。
 夫と出て行って二時間後、帰ってきた娘の腕には、白い小さな子犬が抱かれていた。ペットショップの店主曰く、「いい犬ですよ」とのこと。

 ――この辺りの事情は、夫と娘、二人から聞いた話の再現になるが……。

「鼻も唇もちゃんと黒くて、綺麗でしょ。それに親犬が賢い犬でしてね。だからこいつも賢くなりますよぉ! もう本当にいい犬だから人気があって、兄弟五匹のうち、二匹にはもうさっそく飼い主がついてね、買われていったんです。」
 娘がケースを覗き込むと、確かに子犬が三匹、ぺたぺたとくっついて、仲良く団子になって蹲っている。
「白いの二匹が雄で、黒白の斑の一匹が雌です。」
「雌はあかんなあ、うっかりしてたら、子犬産むやろ。そしたら大変や。」
「でもこの子、隣のリンちゃんにそっくりちゃう? 妹みたいで可愛くない?」
「本当の妹ならともかく、ただの似ている犬飼ってもしゃあないやろ。第一、他のと似てるやつじゃ面白ない」
「そっか」
 なら、この白い子たちのどっちかやね、と娘は熱心に二匹を見比べ始める。
「うーん……。」
 しかし、夫は首を捻った。

猫、増加。

 こうして始まった私と野良猫たちとの、ささやかな触れ合い。

 それは、次第にふくらんでいった。

 最初は、白黒猫の親子二匹。「陸のがあがあ」に餌をやっていたら、フェンスの向こう側に、白黒模様の親子猫が何時の間にやらやって来ていたのだ。白黒な子猫は、それこそ物欲しそうに、羨ましげに「陸のがあがあ」を見ている。

『ねえ、お母さん、行ってきていい?』

 窺うようにして、ちょろちょろとフェンスから出て来かけるが、

『駄目!』

 母親らしい、大人猫が子猫を引き留める。叱られたらしい子猫はいったん母猫の傍に戻るが、

『ねえ、食べたいよ! いいでしょ?』

 と、またそろそろと出て来かける。

『駄目って言ったでしょ!』

 母猫が怒る。これの繰り返し。

 その母猫は、なかなか精悍な様子をしていて、

『猫って虎と同種族やったねえ』

 と、思わず私が夫に言ってしまったほど。

 百獣の王とはいうが、動物園で見るライオンというのは、どうも怠惰な風情で柄も小さく、そんなに立派には見えない。しかし、虎の方は正直、これぞ百獣の王といった勢い。しなやかな、事あれば今にも飛びかからんとする獰猛さを滲ませながら、悠然と檻の中に坐している。

 そんな虎の、優美な逞しさをそのまま写し取ったような姿。子連れでなければ、間違いなく雄だと思い込んでいただろう。しかし、二匹のやり取りはまさしく母親と、まだ無邪気で世間知らずな幼い子どもとのそれだった。

 あんまり可愛くて、私と夫は、その母子分のキャットフードを、そっとフェンスの向こう側に手を伸ばし、置いてやった。

 これで、二組目。「親白黒」と「子白黒」(この名づけに、夫はまたしても「ほんまに安易やな!」と笑っていた)の登場だった。

 似たような形で、交流する猫たちはだんだんに増えていった。

 今にして思えば、長閑な時代だった。近所に、まだ人家が少なかったのも幸いだったのかもしれない。今は、

「野良猫に餌をやらないでください、ご近所の迷惑になります」

 と、宣伝カーが街角を巡回するようになってしまっているが……。当時は、私たち以外にも私たちのように、公園で野良猫たちにご飯をやる人たちが多かった。互いに連携する訳ではなく、みんな、好き勝手に名前をつけて、贔屓の猫を可愛がっていた。

 私たちが「(元祖)クロ」と呼んでいた真っ黒猫。ご近所の若い専業主婦さんは、この子を「ボス」と呼んでいたようだ。

 この「(元祖)クロ」は、恐らくかつては人間に飼われていたのだろう。恐ろしく人懐っこい子だった。与えた餌を食べるのもそこそこに、飛び出して来て私や夫の足元にまとわりつき、

『撫でて!』

 とばかりに、ひっくり返ってお腹を出す。

『そうかそうか』

 夫は嬉しそうにお腹を撫でてやるが、私は最初、さすがに触れるのは気持ちが悪かった。

 私の前でもころんとするので、

『ちょっと、撫でてやって』

 夫を呼んで、代わりに撫でてもらったが……。もちろん、それはそれで嬉しそうに撫でてもらうのだが、「(元祖)クロ」は、それだけでは断固承知しない。夫に一通り撫でられて満足そうにした後、

『じゃあ撫でて、撫でて!』

 と、やっぱり私の前にやって来て、ころんとする。

 仕方がないので、恐る恐る撫でた。たらん、と伸びた時の兎のお腹に似ていて、それよりもっと柔らかい感じがした。暖かい。

おお可愛いと驚いたが、舐められると舌はざらざらで、棘が生えていて、やっぱりちょっと不気味だった。兎の舌はくちゅっと小さくて、なめらかで暖かい。咬まれると血が出るくらい前歯は凄いし、抱かれるのを嫌がって腕を蹴るときの後ろ爪の威力も、皮膚の引き裂けるぐらい凄まじいのだが。

 それはさておき、そういう『撫でて』な甘えん坊の、丸い目があどけない「(元祖)クロ」が「ボス」? 似合わないなあと思っていたが、ある日曜日、偶々通りがかって「(元祖)クロ」(らしき猫)を見かけたときは、正直驚いた。

 明るい陽射しのなかで見る「(元祖)クロ」は、それこそなかなか精悍な様子で、そしてかなり凄味のある目をしていた。まさに「ボス」! 

 猫は明るい中では瞳孔が細くなるので、かなり形相が変わるようだ。主に仕事帰り、暗くなってから猫たちに会う私たちと、恐らくは昼間に会う人たちとでは、猫に対する印象も異なるらしかった。

野良猫との出会い

 私の猫嫌いを治してしまった、野良猫たちのこと。
 野良猫たちとの出会いは、結局は哀しい別れと繋がっていたが、それでも数年間はお互い、楽しいというか、心安らぐ付き合いが続いていたかと思う。人間視点の身勝手な思いかもしれないが、確かにそうだったと私は信じたい。
 私と彼らとの触れ合い、それはアヒルから始まった。
 当時、私はこの土地に引っ越してきたばかり。結婚後、長年望んでも得られなかった子供をようやく授かり、私も夫も勇み立って、職場からはだいぶ離れてしまうが、生まれてくる子供のためにも庭のある家をと頑張って、開発し立てだったこの地に庭付きの家を買って移り住んできたのだ。
 しかし、肝心のその子は庭で遊ぶような歳になる前に、呆気なく逝ってしまった。今いる子どもたちが顔も知らない兄、私の長男だ。
 遊ぶはずの子供がいなくなった庭のある家は、何とも虚しいものだったが……。
 今思えば、代償行為とでもいうべきものだったのかもしれない。私は勤務帰り、駅から新しい我が家への帰り道、途中にある公園の池でアヒルにパン屑を投げてやるようになった。偶々夫の帰りも重なると、二人で投げた。
 番いなのか、二羽いたので、名前を「があ」と「があ」にした。……要するに、二羽の見分けがつかなかったのである。
 可愛いものだった。
『があがあ!』
 と私が呼ぶと、池の反対側で休んでいても、街灯の銀色の光のなか、するすると池に入り込み、
『があ! があ!』
 と鳴きながら水面を滑り、寄って来る。そして、池の鯉と競争しながらパンをつつく。毎晩のことだったので、何処で見分ける(聞き分ける?)のやら、私や夫が通りかかると、呼びもしないのに
『があ! があ!』
 とやって来るようになってしまった。あんまり律儀に寄って来るので、パン屑を持っていないときは、わざわざ公園の隣を避けて遠回りして帰らなければならなくなったほど!
 そんな、アヒルとの交流がなぜ野良猫たちとの交流に繋がったかというと……。
 或る晩のことだ。
『があ! があ!』
 と鳴くアヒルたちにパンを投げてやっていると、
『にゃあ! にゃあ!』
 と声がするではないか。見れば、茂みに雉虎の猫がいて、物欲しげににゃあにゃあ鳴いている。
『アヒルばっかりずるい! 僕にもちょうだい!』
 と言っているかのようだった。脅かさないようにそっとパンの欠片を投げてやると、いったん用心深く茂みに引っ込んで、しかしすぐに顔を出してがつがつ食べ始める。
『パン食べるんやね。猫って肉食ちゃうの?』
『猫は雑食やろ』
 あんまり美味しそうにパンを食べる猫が可哀想で(それに野良猫のせいか、私が気味悪くなるほどの距離までは近づいて来なかった)、私たちはそれから、その猫の分もパンを用意してやるようになった。
 猫の名前は、「陸のがあがあ」にした。「があがあ」と呼んでいたら出てきた、陸の領分で生きる子だから。
『安易やな!』
 夫は呆れていたが、なに、名前など名は体を表す式に、分かりやすい方がいいのだ。
 その夫は、猫は雑食だと言っていたが、ネズミやスズメを捕まえて食べる猫は、どちらかというと肉物の方が良いのではないか? そう思ったので、私はドライキャットフードを「陸のがあがあ」用に用意してやるようになった。――洒落た通勤用バッグに、こっそり袋に小分けしたキャットフードを詰めて出勤する女というのは、私以外に果たして当時、いたものだろうか?
 これが、私と野良猫たちとの最初の接触である。ちなみに、アヒルたちはアヒルたちで可愛いので、最初はアヒルたち用のパンも別にバッグに詰めていた。しかし、やがて用意するのはキャットフード一色になる。なぜかというと、ちょうどパンが無かった日、困ってしまってキャットフードをアヒルたちに投げてみたら、パンなどより、そちらの方をよほど喜んだのだ。
 パンと違って、キャットフードは水にほとんど浮かばず、すぐに沈んでしまう。その、すぐに沈むキャットフードをぱくつくアヒルたちの、猛然たる勢い! 寄って来る鯉を蹴散らす勢いで、
『ががががががッ!!』
 そういう訳で、私は日々、仕事用バッグに野良猫用キャットフードと、アヒル用キャットフードを詰めて出勤することになった。
 

夫の動物愛(一部、疑問)

 私の夫は見境なく動物が好きだと書いたが、いささか正確性に欠ける表現だったかと思う。
 夫は蛇が嫌いだ。うねうねと道を這うのを見るだけで怖気をふるうほどらしく、以前、私が夫の財布に入れてあげた蛇の抜け殻もいつの間にか捨ててしまっていた。蛇の抜け殻は財布に入れておくとお金がたくさん入ってくる、というジンクスがあるのだが。
 爬虫類全般が駄目な訳ではなく、亀などはかつて息子が十匹以上飼っていたのだが、普通に一緒に世話していた。亀もなかなか可愛いもので、餌をくれる相手の足音でも聞き分けるのか、私が寄っていくと首を長く伸ばして私を見上げてきたりした。
 亀は寒くなると冬眠するので、庭に砂地を作り近くの農家から頂いた藁を上に敷いて、寝床を用意してやった。すると春、その亀のうちの一匹(?)が卵を生んだようで、もともといた亀たち以外に、大量に小亀が這い出してきた。可愛いちいちゃな亀が何匹もよちよちと庭を這い回るので、それを捕まえては母亀父亀たちのいるだろう水槽に入れてやった。その結果、大亀小亀、息子や娘の使用していたベビーバスに溢れるほど亀が増えてしまって、一時期はどうしようかと悩んだものだが……。
 それはさておき、私の夫は基本的には可愛い哺乳類や鳥類が好きだ。
 鳥に関しては、スズメを見たとき、
『カスミって言ってな。背後から脅かして、見えにくい網に追い込んで捕まえるんや。面白いで』
 やら、
『羽根さえ適当に毟っておけば、腸とか取らんで丸焼きにしてもけっこういける』
 やら、物騒な科白を楽しげに並べるので、ペットとしての好きというのとは少し違うかもしれないが。……これに関しては、私も公園で長閑に歩く鳩を見たとき、
『丸々として美味しそうやね』
 とやらかして――半分冗談だったのだが――幼い娘に泣かれたことがあるので、あまり他人のことは言えない。
 幼い頃、雪の降り積もる冬、実家の父がクグツ(罠)で獲ってきてくれる野鳥のなかで、文句なく一番美味しかったのはヌエ(正式名称は不明)と呼ぶ鳥だった。しかし、鳩も悪くなかった。
 それはさておき。私の夫は私と違って町育ちで、兎や鶏などとはあまり縁がなかったらしいが、犬や猫などは勝手に飼っていたらしい。勝手にというのは親の許可を得たり、ペットとしての登録をしたりせずに、ということ。夫が子供だった当時、ペットの申請制度など、果たしてあったのだろうかと疑問にも思うが……。
 ともあれ、父親を早くに戦病死で亡くし、母親だけに育てられていた夫は、その母親が働きに出て留守の間、野良の猫や犬たちを可愛がっていたらしい。餌は、残りごはんにお味噌汁をかけただけのもの。……早死にが多かったというのは、塩分過多だったのではないだろうか?
 ともあれ。そんな夫にとって特に思い出深いのが、アカという茶色い犬なのだそうだ。夫は野球が大好きで、近所の友達と毎日空き地で野球をしていたのだそうだが、その犬もいつもそのお供をして空き地まで通ってきて、野球が終わるまで遠くへ行くこともなく、夫を待っていた。そして夕方、一緒に帰る。そして、縁の下で眠る。夫に実に良く懐いて、夫には自分の出産する姿を見せたりまでしていたようだ。普通、飼い犬でもそれだけは見られるのを嫌がることが多いらしいのだが。
 しかし、ある日のこと、帰宅する夫の後をついてきていたその犬を、犬獲りが捕まえてしまったのだ。
 その日、犬獲りの姿を見た夫は、自分に従っていたアカに向かって石を投げつけた。びっくりしたアカは、慌てて手近なよその家へと逃げ込んでいく。
 夫としては、犬獲りからアカを逃がしてやったつもりだった。ところが、犬獲りはその家にまで踏みこんで行って、結局夫の目の前でアカを捕まえてしまった。
 助けてやりたくて、しかし、子供の夫にはもうどうしようもなくて。
 繋がれ、しょんぼりと連れられていくアカの姿は、石を投げつけられた時の驚いたような鳴き声と共に、未だに夫の記憶のなかに鮮明なのだという。
 そんな経験があったら、私なら二度と犬など飼いたくないと思うかもしれない。しかし、夫は逆のようだ。夫と息子と娘、三人の中で「犬」に一番執着しているのは、もしかしたら夫かもしれない。子どもたちを、もしかして焚き付けていたりして……? いや、もうそれならそれでいいから、犬の世話だけは責任をもって、ちゃんとやって欲しい!

 

 

犬も、それから猫も無理。

 私は犬が嫌いだ。いや、嫌いというより、本当は恐いという方が正しいだろう。
 昔は猫も嫌いだった。恐かった。五歳か、六歳くらいだったろうか。「猫化け」の菊人形を見せられたからだ。
 私が幼かった当時、菊人形見物に行くのは、数少ない家族の娯楽イベントだった。今なら、家族でUSJへ遊びに行くといったのと、同じ感覚だろうか。
 等身大の人形、白い長い髪の毛を前に垂らした小柄なお婆さんが薄暗い中、行灯の戸を開けて、中の油をぺろりぺろり……。振り向いたお婆さんは化け猫になっていて、私に向かってにやりと笑った。
 体が凍りついた。今となっては、他愛ないホラーだったのだとは思うが、幼い私には本気で恐ろしく思えた。幽霊の恐ろしさ!
 それからしばらくは夜中、お手洗いに立つのも弟を寝床から引っ張り出して、
『待っといてや!』
 とお手洗いの前で待たせていなくてはならなくなったぐらいだ。当時、屋敷のお手洗いは長い濡れ縁の先にあって、真っ暗な前栽を横に見て行かなくてはならなかったので、恐さも一入だったのだ。
 暗闇の中、蹲る雪見燈籠、すうっと立つ石燈籠が、行灯に顔を突っ込む「猫化け」のお婆さん、立ち上がって振り向くその姿を私に思い起させる。背筋がぞくぞくした。
 こうして、私は猫が大嫌いになった。そもそも猫にはどこか超自然的な、この世ならぬ雰囲気があると思う。子猫はともかく、昼間見る大人猫は瞳孔が細く、どうも目に凄みがある。それに全身ぐにゅぐにゅだし。今はそれも何とも柔らかで可愛らしいと思うようになっているが、かつては本当に不気味で、恐くて駄目だった。
 そういう超自然的な、幽霊めいた恐さを感じていたのが猫なら、犬について、私はもっと物理的な、現実的な恐怖を感じてしまっている。単純に言うなら、飛びかかられて、咬まれそうで恐いのだ。
 私は山里の育ちで、小学校に通うにも片道たっぷり一キロ以上歩かねばならなかった。まあ、家路を辿る嬉しさに加え、友達と道草しながら遊び遊び帰る帰り道は、そんなにしんどい一方のものではなかったが。
 たとえば初夏の帰り道、良く実った裸麦の畑にカバンを隠しておいて、桑畑に直行。道草は家からも学校からも実は禁じられていたので、楽しむにはそれなりに知恵が必要だった。うっかりすると、翌日の反省会で立たされる羽目になってしまう。
 あころんで(熟して)真っ黒になったふなめ(桑の実)をぼって(採って)は食べぼっては食べ、友達同士、真っ黒になった唇、歯や舌を見せ合って大笑いしたものだ。喉が渇けばしゅうず(湧き水)を両手ですくって飲む。今のように、生活排水だの環境汚染物質だのと、気にしなくていい時代だった。
 さて、その通学路には、実は難所(関所と言ってもいいぐらいだ!)が一か所あった。村外れの、独り暮らしのお爺さんが住んでいた家だ。
 本当はお爺さんというほどの歳ではなかったのかもしれない。しかし、幼い私の眼から見て、ぼうぼうと長い髭を生やしたその人はお爺さんそのもので……そのお爺さんの飼っていた犬が、私を含めた村の子供たちの「難所」を生み出していた。
 エースという、当時からすればハイカラな名前を付けてもらっていたその犬は、当時らしく、放し飼いにされていたのだ。その黒毛のエースは前の道を通学する私たちを見かけると、狂ったように吠え立てて追いかけてきた。もう、必死の思いで逃げたものだ! 
 子ども達の誰もがぶら下げる、給食のミルク用のアルミ食器を入れる食器袋というものがあった。給食といっても、当時はミルクが出るだけ。おまけにミルクといっても、GHQから提供された脱脂粉乳というあれだ。戦後の所謂食糧難の時代、美味しいものなどろくに無かった当時にあっても、幾らなんでもあれは不味かった! うちの山羊のミルクは、濃くて美味しかったのに。
 私はその袋を振り回し、追いかけてくる黒い頭を叩きまくって、半泣きで逃げた。逃げても逃げても、それでもエースは追ってくるのだ!
 この記憶のせいで、私は今も犬が恐い。弟もエースに追い回された経験があるそうで、犬は好かないと言っている。
 離れて眺める分には犬も問題ないし、ふかふかとして目に優しいとは思う。蛇や毛虫とは違う。ご近所の飼い犬たちを、
『可愛いですねえ』
 というのは、別にお世辞でも何でもない。ただ、懐っこい子犬がしっぽをふりふり手を舐めに寄って来たりするのは、少々困る。やはり、恐い。一瞬、身を引いてしまう。
 そんな犬が、ついに我が家にやって来るのだ。

 

 

兎も可愛い。

 兎は文句なく、ふくふくとして愛らしいと思う。
 私がまだ子どもだった当時、たいがい何処の家でも兎や鶏を飼っていた。だから、兎の大好きなタンポポやマオといった青草を誘い合わせて摘みに行くのは、これもまた私たちにとって、遊びの一つになっていた。
 彼等は、自分たちの体より大きな嵩の青草をあっという間に平らげてしまう。もぐもぐもぐもぐと、際限なく動くくちもとの何とも可愛らしいこと!
 シロツメクサ、つまりクローバーの野原へ弟や友達と一緒に、兎を連れて行ってやることもあった。兎たちがのんびり跳ねまわり、お腹いっぱい草を食べている間、私たちは私たちで野原に転がり、時折は兎をかまって遊んでいる。
 オオバコの茎を絡ませて引っ張り合い、ちぎれたほうが負けという草相撲(?)を取ったりもしたし、酸っぱいスイスイ(スイバ)の茎をかじったりもした。
 スイスイには二種類あって、より大きくてボリュームたっぷりに見える緑のスイスイは「牛のスイスイ」といって、牛は食べるが人間は食べなかった。人間用の、花穂と茎が淡く紅色がかった細いスイスイを齧った。
 ツンバラ(チガヤ)は仄かに甘い。真っ白い穂が出る前の、蕾の下の柔らかい部分をちゅちゅっと吸った。
 畑一面鮮やかなピンク色に染まる、レンゲ畑にころころと転がることもあった。見上げれば、自分の頭の形にぽっかり穴が開いて、青空が覗いている。周りを縁取るピンクのレンゲ草。一緒に揺れる、可愛い緑のスズメノテッポウ(イネ科の雑草)。抜いて、ぴい、と青空に向けて鳴らしたりもした。
 レンゲの花は私たちから見ればうんと高い位置にあるのに、
『こらあ! 又やっとるな!』
 レンゲ畑の持ち主である、モウとこのオッチャン……いや、村で唯一、乳牛を多頭飼育していた牧場経営の小父さんがレンゲ草に「隠れている」私たちをすぐに見つけて、怒鳴ってきたものだ。
 土を肥やし、牛の餌にするためのレンゲ草を子供たちに押しつぶされては、それは堪らなかっただろう。しかし、私たちとしては、しっかり「隠れている」はずなのになぜすぐ見つかるのかと、酷く不思議だった。見上げれば、レンゲの花はうんと高い位置で咲いているのに!
 ともあれ、そうして野原で遊んで、夕方になると兎たちを「ふご」(藁で編んだ、手提げ付きの入れ物)に入れ、家に帰った。
 神社の大杉から
『ホウホウ、ノリツケホウソウ』
 とフクロウが鳴くときは、
『明日も晴れやな、また遊ぼな!』
 笑って友達と別れた。
 この兎たちも実家ではやがてお肉になる運命だったが、そういえば弟は、兎が捌かれるところは見たがらなかった。鶏は平気なようだったし、兎もお肉になってしまえば美味しく食べていたのだから、勝手といえば勝手な話だ。
 まあ、こういう風に兎は飼ったことがあったから、実は娘が幼稚園のころ、動物を飼ってとあまりに強請るので、
『兎ならいいよ』
 と、許したことがある。
 当時の娘はどんな動物より「ウサギちゃん」が好きだったので、それはそれは喜んだ。
 小さい頃に娘が描いた絵の動物たちは、みんな長い耳を持っていたものだ。幼いながら、「聞き耳ウサギ」とかいうお伽噺を作っていたこともある。私は娘の語るそのお話を、娘の描いた絵にちゃんと書きとめて、今もとっておいてやっている。
「お父さんウサギ」というのもあった。兎一家の物語なのだが、面白いのは、兎お父さんが毎朝、「会社」ではなく「学校」に向かうことだ。夫が教員なので、まだ幼稚園児だった娘にとって「学校」というのは「お父さん」の働きに行く場所のことだったのだろう。
 笑いながら娘にその話をすると、
『そんなん、もう捨てて!』
 真っ赤になって怒ったので、それらを私が今でもちゃーんと保管していることは、娘には秘密である。 
 それにしても、あの兎たち! あれがあのまま我が家にいてくれれば、今回のようなことにはならずに済んだだろうに。犬……。
 しかし、家の建て替えの際、仮住まいに連れて行けなくて、泣いて嫌がる娘を説得し、兎は私の実家とその近くの家にもらってもらった。
 その後飼ったハムスターは、子供らの拙い世話の手を掻い潜って脱走、それっきり行方不明。庭の倉庫に野良猫が棲みつき、子猫を生んだこともあったが、結局それも、子猫の目が開いた後すぐにいなくなってしまった。
 私はかつて猫も嫌いだったのだが、子供らが生まれる以前、とあるきっかけから、野良猫たちと触れ合うことになったことがある。その結果、いつの間にやら猫嫌いは治っていた。だから、せめてあの倉庫の猫たちが、あのまま家に居ついてくれていたら……。
 まあ、仕方がない。これも成り行きというものだろう。出来るだけ犬には近づかず、お互い気持ちの良い同居相手になれればいい。
 子供たちの
「世話は全部やるから」
 という約束は正直言って怪しいものだと思うが、後押ししたのは夫だ。夫はそれこそ見境なく、動物全般が大好きらしい。それならそれでいい。責任は取ってもらわなくては。
 三人がいない間の、水やりと餌やり。それ以上、私は犬と関わるまい。散歩? とんでもない話だ! 犬との直接の接触は、出来る限り避けたいものだ。

 

別に、動物嫌いではない。

 遂に、我が家で犬を飼うことになってしまった。
 小学生の息子と娘と、それから二人を援護する夫に、とうとう負けてしまった形だ。夫が頼んだペットショップから連絡が入れば、我が家に犬がやってくることになるだろう。私は、正直言って犬が嫌いなのだが。
 動物全般が嫌いという訳ではない。私の故郷は丹波の山奥なのだが、実家ではずっと兎と鶏を飼っていた。山羊や羊を飼っていたこともある。牧場を経営していた訳ではなく、当時何処の家でもそうしていたように、家族のために飼育していたのだ。
 どれも、なかなか可愛かった。鶏など見た目はそれほど可愛らしいものではないが、しかし飼ってみればどうしてどうして、いたいけなものなのだ。
 夕方、
『とうっとっととと! とうっとっととと!』
と声をかけ、鶏小屋の戸を開けてやると、
『お遊びの時間だ!』
と言わんばかり。ばたばたと羽ばたいて、鶏たちはおいどを振って勢い良く庭へ駆け出していく。祖父の丹精していた牡丹やツツジなどの木、父がわざわざ遠くの都会(宝塚だと思う)の草生園から取り寄せて大事に大事に育てていた珍しい花壇の花の根元を足で掘り返し、虫を探し出しては啄み、喉が渇けば前庭の池へ。くっくと喉を反らして水を飲む。
 そうして好き放題駆けまわって、日が落ち辺りが暗くなり始めると、何もせずとも三々五々、勝手に小屋に戻ってきて、そして止まり木に止まって眠りにつく。
 もっとも、中には個性派もいて、その子は庭外れの大きな大美濃柿のてっぺんに止まって夜明かしするのだ。
 鶏だからといって、馬鹿にしてはいけない。普通の鶏でも、屋敷横を流れる小川の岸辺から岸辺へくらいは簡単に跳ぶ。そして見上げる高さの木の上ならば、そうそう滅多な動物(蛇やイタチ)に襲われたりもしない。
 私たちはそれを知っているので、その子が小屋にいなくても、他の子たちが揃っていれば戸を閉める。
 そうして朝、近所の家々から、
『こけこっこー!』
『こけこっこー!』
と次々に雄鶏たちが時をつくり、夜が明けると、私たちは鶏に朝ごはんをやりに行く。すると、外で過ごしたあの猛者もようやくご帰巣になる。
 当時、どの家でも雌鶏が五、六羽、雄鶏が一羽、一緒に飼われていた。なぜ雄鶏が一羽いるかというと、雌鶏に卵を抱かせてヒヨコを孵らせるためだ。孵ったヒヨコがぴよぴよ鳴いて、母鶏の後ろにくっついて遊び回る姿は本当に可愛らしいものだった。
 だから、毎日私たちが集める卵は有精卵だった。
 雌鶏は卵を生むと、
『けぇこっこここ、けぇこっこここ』
 と、独特の鳴き方で
『生んだよ!』
と教えてくれるので、私たちは生みたての温かい卵を取りに行く。
 その卵全部を家族で食べる訳ではない。ほとんどは回ってくる卵買いさんに買っていってもらうのだが、それでもまあ、大した収入になるものではなかった。
 ただ、うちの卵はけっこう美味しかったのではないかと思う。
 家の野菜屑や水辺に生える溝そばなどの青草を母が刻み、そこへ米糠や組合(農協)から買ってきた魚粉も混ぜてこね合わせ、鶏たちにいつも食べさせていた。秋になると、私たち子供も鶏たちにたくさんのイナゴを採ってきてやった。
 稲田の害虫のイナゴだが、鶏たちにとってはご馳走だ。
 実り始めた稲田、その畦に踏み込むと、ぴょんぴょんと黄色いイナゴが飛び出てくる。逃げようとするそれを素早く捕まえて、空のサイダー瓶に押し込む、時には自転車の車輪のスポークで串刺しにしていく。友達や弟と数を競って採っていくので、私たちにとっては楽しい遊びのようなものだった。
 その遊びの成果をお腹一杯食べて、思う存分運動して、鶏たちはきっと栄養たっぷりの、とびきり味の良い卵を生んでいたはずだ。今でいう、自然飼育である。
 やがて歳をとって卵を生まなくなった鶏は、父が捌いて鳥鍋にしてくれた。それも楽しみだった。父の本職は教師だったのだが、それこそ今にして思えば多趣味で多才な人で、鳥でも魚でも、兎でも自分の手で捌いていた。
 私たち子供がアラ(肉のついた骨)を好んだので、骨にわざとたっぷり肉をつけて切り分けてくれる。夕飯の前に、母がそれを甘辛い、濃い味にして煮付けてくれたので、私たちは夢中になってアラをしゃぶった。本番の鳥鍋より美味しいのではないかと思ったものだ。
 とはいえ、鳥鍋ももちろん美味しかった。廃鶏の肉は堅いが、味がある。たまに、お腹にまだ卵の元を抱いているのもいて、
『まだ卵を生んだのになあ!』
 惜しかったと嘆く一方で、その卵のもとは姉弟三人、取り合いをして食べた。
 こんな話をすると、二人の私の子どもたちも、一人きりいる私の姪も、信じられないという顔をする。ペットに慣れた世代の子供たちは、そのペットを美味しく食べてしまうという行為があり得ないものに思えるらしい。
 まあ、確かに今でいうペットというより家畜に近い存在だったのだろうが、それでも、可愛いと思っていたのも嘘ではない。
 山羊は乳を、羊は毛を、兎は鶏と同じく肉と、それから毛皮を。それぞれ提供してくれた。兎の毛皮を使った父のデンチ(チョッキ)は、今でも実家に残っているはずだ。

 

人気ブログランキングへ